By MesserWoland |
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Nancy Brinker
乳がん患者や研究者の支援などを行う団体「スーザン G. コーメン(※)」の創設者。乳がんで亡くなった姉の遺志を継いで1982年にテキサスで設立した。
ハンガリーのアメリカ大使を務めた後、ジョージ・W・ブッシュ政権下でChief of Protocol(儀典長)という役職に就いていた。
※「スーザン・G・コーメン乳がん基金」、「スーザン・G・コーメン・フォー・ザ・キュア」と、何度か名前を変えている。
息子さんのエリックは、空港内のレストランなどを展開する会社「OTG」で「Vice President of Experience」という役職についているほか、スーザン G. コーメンの活動にも積極的に参加しているようです。
彼がゲイであることに家族は非常に理解があり、問題になったことはないそうです。
ナンシーが乳がんの支援活動を始めたのはエリックが5歳の頃。最初の本部となったのはエリックの子供部屋で、部屋はピンクリボンであふれていました。
「息子はどんな男の子よりもピンクのリボンを持っていました。」
ナンシーは聴衆に思い出を語った。
「そのせいで僕はゲイなんです。」
とエリックが笑わせた。[*1]
家はミーティングの場にもなり、女性たちが乳がんについて話し合っていました。団体を設立した1982年当時は、がんについて話されることすらまれで、乳がんはさらにタブー視されていたようです。
エリックはあるエッセイでこんな風に振り返っています。
[乳がんについて]母がとてもオープンに話していたのが恥ずかしく、友達にどう思われるか心配だった。今となってはほとんど信じがたい話だが、当時、女性たちは乳がんにまつわることに羞恥心や汚名を感じていた。それは母やボランティアたちが終わらせたいと思っていた恥と汚名だ。母たちが望んでいたのは、乳がんについて話してもいいのだと女性たちに知ってもらうことだった。乳がんのリスクを減らす対策を講じてもいい、自分を乳がんと診断された女性だと見なしてもいい、と知ってもらいたかったのだ。[*2]
また、エリックによると、団体はレズビアン女性が乳がんのハイリスク層であること(※)にいち早く注目し、LGBT団体と協力しながら調査や啓発を行ってきたそうです。彼はゲイ男性として、そのことを特に誇りに思っていると語っています。[*2]
※妊娠や出産歴がない、飲酒や喫煙率が高い、不当な扱いを受けることを恐れて病院から足が遠のく、などの理由から。
2015年、同性同士の結婚がまだ連邦最高裁判所で審議されていた頃、ナンシーは同性婚の支持を表明しました。彼女は政治的には保守派ですが、同性カップルが家庭を築こうとするのは、家族を重んじる保守派の理念と矛盾しないと考えています。
「私は基本的に、強固で献身的な家族構成を信じています。そして現代の家族が私たちの育った50年代の家族のようである必要はありません。」[*1]
当時、LGBT情報誌「The Advocate」にも同性婚を支持するエッセイを寄稿しています。
息子のエリックはゲイだ。「乳がん」という言葉がタブーだった時代を想像するのが難しく思えるのと同じように、この国の26パーセントにおいて民事婚がいまだ同性カップルに開かれていないということが、私にはほとんど理解しがたい。[*3]
乳がんを無くすための戦いのなかで私たちが30年以上にわたりしてきたように、LGBTコミュニティ内の人々への汚名と差別を終わらせ、彼らが自由に結婚でき、安定した愛情ある家庭を築けるよう、今こそ働きかけなければならない。意義深い変化というのは容易に起こることはめったにないが、いつだって戦う価値のあるものだ。[*3]*1 For Komen founder Nancy Brinker, gay rights is another issue close to the family |The Washington Post (2013)
*2 Voices of Impact – Eric Brinker |Susan G. Komen (2013)
*3 Op-ed: Susan G. Komen Founder on Her Gay Son and Marriage Equality |Advocate (2015)
《関連リンク》
・LGBTの私たちはピンクリボンと一緒に生きている|関西レインボーパレード2009
・「『スーザン G. コーメン フォー ザ キュア』からビデオメッセージ」スーザン ブラウン氏|TBS ピンクリボンプロジェクト